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2008年6月30日 (月)

コスタリカではもともと他の中米諸国と同じように ブルボン種やティピカ種を中心に小規模から中規模の農家が良いコーヒーを作っていました。

1960年代ぐらいからいわゆるエステート(大規模農場)やコーペラティブ(協同組合)、コーヒー国際大企業の力が強くなり、小規模、中規模の生産者はチェリーをコーペラティブや国際企業経営のミル(生産処理場)に持ち込み現金化し、また、ミルを経営しているコーペラティブや国際大企業はそれを大量に処理し安定した品質のいわゆる「コスタリカSHG」などを作ってきました。

それに合わせてシェードツリーを使わない集約的日なた栽培でカトゥアイやカツーラ、それにハイブリッドなどの品種に植え替えていきました。コスタリカはメインストリームコーヒー(主流の一般的なコーヒー)の安定供給者となっていきました。

ところが90年代に入ってコーヒーの国際価格が低迷し、コスタリカ全体の生産量も 減少したため、大規模コーペラティブなどが必要なチェリー量を集められず競争が激しくなりコスタリカ内ではチェリーを巡ってバブルが起きました。その結果大規模コーペラティブの倒産が続きました。
90年代後半から始まった本格的なスペシャルティコーヒーの興隆もあって これらの流れを反省し、再び小規模な自前のミルで自分のコーヒーもしくは 家族や近所の農園のチェリーを生産処理するマイクロミルが出てき始めました。比較的裕福な農園主が自分のブランドを出したいために作ることも、貧しい小規模農家たちがグループで作る場合も(この場合は色々な 資金援助を受けているケースが多い)あります。

マイクロミルという言い方は今までの中央集約的なミルシステムに対しての表現で、まあ簡単に言えば他の多くの生産国のように自分のチェリーは自分で生産処理する、ということです。
たとえ話にしてみましょう。軽井沢がコスタリカの地方の町だと考えてください。
カルイザワ・コーペラティブという大きな生産処理場があり、コーヒー農家である私丸山は収穫したコーヒーのチェリーを今まではコーペラティブに売っていました。
軽井沢の多くの生産者、たとえば旧軽井沢のAさんも追分のBさんも中軽井沢のCさんも
ほとんどの農家の人がチェリーをコーペラティブの売っていました。そしてカルイザワコーペラティブではそれらをみなクラス分けし、ブレンドしコーペラティブとしていくつかのブランド豆を作りました。標高が一番高いエリアでとれたもので作ったブランドに「コスタリカSHG カルイザワ」と名づけ世界に販売し、安定した品質でとても有名になりました。
年間1,000袋生産します。
消費国では「カルイザワ」という一つの農園が存在すると考えがちですが、実際は50人とか100人とかの生産者のコーヒーのブレンドになっています。その中にはコストをかけて一生懸命作る生産者もいれば、やややる気のない生産者もいたりします。でも豆は同じ値段で買い取られます。そしてそれはニューヨーク市場の相場によって変わってきます。
一生懸命作っても、差別化できないし、収入も増えない。
そこで私丸山は考えました。「自分のチェリーを自分で生産処理し、最後まで責任をもって
品質を管理したい。そしてその豆はラ・マルヤマの名前で、自分の生産した豆として、なるべく最終消費者に近いルートで売りたい。私のコーヒーの品質を、私の農園の持つテロワールを評価してくれるバイヤーに相場の動きにあまり影響されずに、高い価格で買っていただきたい。でなければ、労働コストの高いコスタリカではコーヒー栽培では食べていくことができない。」
そこで、設備投資をしささやかな生産処理場を作りました。ここではボリュームが問題では
ありません。クオリティに最大の注意を払います。初年度は自分の畑から取れる40袋分のみ生産処理しました。そのユニークなフレーバーを気に入ってくれたアメリカのロースターが市場価格に相当のプレミアムを乗せて買ってくれました。そして継続的に買ってくれることを約束してくれました。
これを見ていた近所のXさんも来年の収穫からはマルヤマの生産処理場で処理をしてほしいと言ってきました。彼も優秀な農家です・・・・
これがマイクロミルの一つの例です。
もちろん、コーペラティブもこの流れを無視できません。コーペラティブも1,000袋といった安定したブランド豆を作るだけではなく、特に優れたロットは、他のものとは混ぜずにそのまま「マイクロ・ロット」として販売し始めました。
こんな話になるでしょうか。

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